安田南 「天使の恍惚」遁走事件の本当の理由 ②

     '72年2月 連合赤軍浅間山荘銃撃戦

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 こんにちは、アナルコです。

安田南 <天使の恍惚>遁走事件の最終章です。

「みんなが(で?)歌える曲じゃないと」

 この一言で喧嘩腰の論争になったところまで、前回書きました。これは若松孝二本人の発言のようです。
これで安田南がキレてしまった。
時間がかかるのと、いったんアタマを冷やす意味もあってか、新宿のバーに場所を移して、双方の意見調整を続けることになった。
今度は、安田南と足立正生の差しでの話し合いである。
この時点では、安田南は降りるつもりもないし、足立正生も降ろすつもりはない。だからこその話し合いである。
 
 「プロだったらやれよ。」  足立正生

だが、場所を変えての話し合いといっても、双方の主張がそもそも平行線なのだから、そう簡単に合意点が見つかるはずがない。

足立 「頼むから(と言ったかどうかはしらないが)、こちらの指示どおり歌ってくれよ」
南  「それは出来ない。大体あっちゃんだって、私とヨースケを組み合わせたらどういうことになるか分かってるでしょうに」

 こんな感じに平行線を辿った話し合いは長引いた。結局は、けんか腰の話し合いである。両者ともにクリエイターであり、表現者である。そこは頑固に譲らない。
 そして、足立正生が決定的なことを言った。

足立 「ミナミもプロだったら言われた通りにやれよ」
南  「プロだからやれないんだよ!(バカヤロー)」

 安田南は、ここで本当にブチ切れた。足立正生に水の入ったコップを叩きつけた。
 それで全てはおしまい。それっきり安田南は姿を消したのです。

<安田南の「天使の恍惚」遁走事件>は、およそこんな風に終結しました。

「理由は音楽、歌。それだけ」

だったのである。

 その後、安田南は何処に居たか? 

 京都に居たのだ。京都の“寂庵”つまり、瀬戸内寂聴のところに身を寄せていたのだ。瀬戸内寂聴と安田南とは、かねてより親交があって、その信頼関係も厚いものがある。二人は、瀬戸内寂聴が得度する前、瀬戸内晴美という人気女流作家時代からのつきあいである。彼女も、自由、奔放、情熱的な女性としてその名を知られていた人物で一世代上の女傑だった。瀬戸内晴美の恋人とも同席して食事などもしている。

 「瀬戸内さんは、なにも訊かずに放っといてくれるから」

と安田南は述懐している。放っといてくれるのをいいことに、滞在している間に一人でいろんな事を、あれこれ考え抜いたのではなかろうか。
いや、安田南のことだ、何にも考えなかったかもしれませんがね。
いずれにしろ、一週間だかひと月だか知らないが、安田南は京都嵯峨野の寂庵で、清貧で(金は持ってない)、静謐な時間をすごして、再び態勢を整えて自分のいるべき場所に戻ったということである。

 

 安田南はオートバイが好きだった、六本木にて

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~安田南と足立正生、相譲れない理由~

ところで、暴論を承知のうえで言ってみたいことがある。
たかが映画、たかが音楽、たかが唄ではないか。なぜ双方ともに譲歩出来なかったのか。
 実際、安田南が降板しても、横山リエで映画は完成しているんだから大したことじゃないような気もする。
だが、このことを深く考えてみると、’60~’70年代がいかに混沌としており、社会も個々人も混乱していたのかが浮き彫りになってくる。
 近代から現代への、戦後史のドラスティックな転換点であり、動乱の真っただ中だったのである。この時期、年齢が3歳違うだけで
全然考え方も価値観も違うし、生まれた場所や育った場所でも違うのだ。カオス状態の中、そこでは個々人が、全く新しい価値や文化、思想を創造するしかなかった。
 まあ、このように話を広げると、それこそこちらが混乱するので元にもどります。
 
 ー安田南の立場ー
 安田南は日頃から「信頼できる人間としか仕事はしたくない」と言っている。この場合の、信頼できる、とは極めて緩やかな基準で、礼儀正しいとか、筋を通す人とか、南が信頼してる人の紹介であるとかであれば、要するに無礼者やいい加減な人間以外は基準におさまると言える。そして、自分の方から売り込むことはしなかった。例えば、ファーストアルバムが遅かった理由もここにある。クラブで唄っていると、レコード会社の人間がよく聴きに来て、そこはまあクラブだから、酔っ払って、「レコード出そうよ」と話を持ちかけてくる。安田南は、酔ったうえでの話は聞き流していた。それが業界のやり方なのか、素面で安田南とは対面しにくかったのか、どうだかは不明だが、安田南は全部無視していた。ある日キングベルウッドのディレクターから、素面の、そして正面からの依頼を受けて、あっさりとOKしたという。これだけでも信頼できる範囲に入るのだ。それがあのロブロイでのライブアルバムである。
 そこで、足立正生はどうか。
 安田南は足立正生を大いにといってもいいほど信頼していた。彼のことを「あっちゃん」と呼んでいたことからもそれはわかる。当然ながら彼女の行動範囲や交友関係からも、足立の仕事ぶりは知っている。恋人の中平卓馬が足立と親しかったかどうかはこの際関係ない。
 前回、安田南が(映画のことでは)「殆んどあっちゃん(足立正生のこと)としか話さなかった」と言ったことを書いた。この言葉は足立正生への信頼感を表明している。<天使の恍惚>は、実際には足立正生が回している。監督としてメガホンを握っているのは若松孝二だが、それは何といっても彼がメジャー、いやマイナーのメジャーかな?監督であり、その大衆性は集客を見込めること、映画製作のための集金力もあったことが理由の一つだと考えられる。足立正生は一般的には無名の存在にすぎないのだ。勿論、足立正生には全幅の信頼を寄せていただろう。世代的にも、この映画は足立の得意分野である。
 こういう話は、また別のところに譲ることにして、安田南と足立正生である。

「殆んどあっちゃん(足立正生のこと)としか話さなかった」
と安田南が言ったほどの信頼感に、「ン?」と思わせる場面が来る。レコーディングの時だ。山下洋輔トリオとのレコーディングセッションにNG が出たときである。問題点調を調整するのに、ミュージシャンがいるスタジオと、若松孝二のいるミキサールームとの間を、足立が何度も何度も往復し、まるで伝言ゲーム状態になったときだ。
「何か、南と若松監督が直接会話しないようにしてるみたいな感じがちょっとした」
問題があれば、直に話したくなるのは自然なことだ。少しは話し合えたようだが、長時間の議論のあとのことだ。頭に血が上った状態で、首尾よくおさまるわけがない。一曲だけ、たった一回のセッションが音源として残ったわけだが、安田南は
「出来が不満足なので録りなおすつもりだった」
と言っている。降りるつもりはなかった。

信頼感がほんの少しだけ揺らいだ程度だった

 ―足立正生の立場ー

  ひと言お断りしておきたい。私は若松プロについては、直接には何も知らないに等しい。したがって、ここは推論、推測が多いことになります。但し、若松映画に好感を持ってても、悪意はないことを強調しておきたい。誤解のないように。
 で、足立正生である。無論のこと彼は映画を撮る側であり、助監督だ。監督は若松孝二だが、その信頼を受けて指揮権は相当なものだったと考えてもよい。
 ところで、映画製作の現場は、知ってる人も多いと思いますが、これがビックリするほど封建的というか、前近代的な社会なのだ。それはある意味当たり前のことで、監督が絶大な権力をふるってこそ、彼の意図する映画作品は作ることができるのだ。俳優はその指示通り動かなけれならない。
 つまり、彼らは出演者が異を唱えることに慣れていないのだ。ところが安田南は当たり前のように自分のやり方を主張し、素直に指示に従おうとしない。それも「女」に異を唱えられた。内心アタマにきただろう。しかも、たかが歌ではないか。
 「天使の恍惚」は、atgと手を組んでの映画だ。力の入れようも違っていた。権力に対する爆弾闘争をメインテーマに、女優に安田南を起用し、音楽には、山下洋輔トリオと安田南である。足立正生は、たぶんそれだけで充分だったのではないだろうか。テーマと配役だけでも十分に日本映画の前衛を走れる。歌はある意味どうでもいい。歌手が安田南であることに意味がある。安田南がそれらしい歌を唄ってくれればいい、ということだったろう。
 推測でしかないが、足立が「プロだったら言われた通りにやれよ」と言ったのはおそらく本音だろうと思います。映画作家からすれば、自分のシナリオどおりに進行しないのは我慢できないことであろう。
 
 安田南の足立に対する信頼も、足立の「プロだったら云々」の一言で崩れてしまった。
 「お前、その程度かよ」
 安田南はそう感じた。山下洋輔と安田南を組み合わせたらどうなるか、という実験精神や創造性もないのかよ、というわけだろう。
 実をいうと安田南は足立と、例のギターをポロンポロン弾きながら歌って見せて、「こういう曲です」と楽曲なるものを提供した秋山某の二人を、心底から許さない気持ちだったようだ。というのも、足立がパレスチナに渡って日本赤軍に合流した時、 
「だったらもういい。認めるわよ」
と言ったのを聞いて、そう感じるものがあった。
秋山某については、誰かから、「あいつは今バナナの叩き売りをやってる」と聞かされた時
「許すわよ」
と言った。
 武装闘争をプロパガンダするメッセージソングを無理やり歌わそうとしたり、「赤軍PFLP世界戦争宣言」なる映画を撮って、<武装闘争こそ最大の(最高の、だったかな?)プロパガンダである>というプロパガンダを安全な日本でやる。これは、主に東京の出版や文化周辺に寄生している政治ゴロや文化ゴロと同じだ、と考えてたのではないか。と私は推測している。中らずと雖もそう遠からず、だと思うが、いかがなものでしょうか。
 
 本当はまだまだ書きたいことが沢山あるけど、長くなるので「天使の恍惚」遁走事件の顛末はおおよそこんなものだった、って事で、これくらいにしておきます。
 次は、安田南がなぜジャズ歌手になったのか、について考察したいと思います。
 疲れるので、もっと短く簡潔に、かつ気楽な報告にしたいと思います。