安田南の死を悲しむ

 安田南さんがお亡くなりになりました。いい歳をして少し泣いてしまいました。
「大路剛」氏のブログ上で報告がありました。信頼できる情報だと思います。少なくとも私の情報ではそう思います。
 没2018年12月25日 
これで安田南伝説は本当になりました。私としても控えていた安田南情報を少しずつですが公開していこうと思っています。      ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

カウンターカルチャーの拠点としての新宿と安田南

 こんにちは アナルコです。
前回からかなり時間が経ってしまいましたが、これからまた頑張って続けていきます。

カウンターカルチャーの拠点としての新宿と安田南
 
 前回までは、<天使の恍惚>遁走事件について、私が知っていることについてはほぼ正確に書き尽したと思っています。
 今回からは、安田南はなぜジャズ歌手になったのか、について考察する予定でしたが、その前に’6、70年代の新宿のある部分について書いておきたいと思います。というのも、新宿は日本のサブカルチャーカウンターカルチャーの最前線の位置を占めていたからです。60年代初頭にはすでに、高校生だった安田南が朝まで新宿のジャズ喫茶で過ごしていたし、数年遅れて中上健二なんかもたむろしていた。

 ところで、サブカルチャーとかカウンターカルチャーとか、簡単に書いてるけど、よくよく考えてみると、これ、随分と曖昧な概念ですよね。これについては、後日もう少し考察するページを設けようと思います。二者の意味と、それらの区別と連関を明確にしておかないと、なにかとんでもない結論を引き出すような気がします。

 話を戻します。新宿の話でした。
新宿の飲み屋には、出版、文学、映画、演劇、音楽、現代美術など、要するにあらゆる文化の未来を担おうと意気込んでいる若手が集合していた。まあ若手ばかりではないけれども,戦後の新しい文化を創造しようという熱気と才能があふれていたのです。
私(アナルコ)自身はこの手の飲み屋には殆んど出入りしなかったのでそこの空気を語りつくすというわけにはいかないが、それでも、数少ない経験と、さらには友人たちに聞いた話を頼りに、少しばかり書き進めたいと思います。
その新宿に集まった、新しい文化を担うことになる文化人といっても、その分野は多岐にわたるし、人数も多かったため、複数の飲み屋を棲み分けるような形で存在していた。といっても、厳密に区分されているわけではなく、あちこち自由に顔を出すのもOKっていう感じである。安いことと、出入り自由ということが極めて重要だったようだ。確かに新宿はピッタリの街である。
そこには、進歩的文化人、急進的文化人、文学作家、映画や演劇の関係者、現代美術やイラストレーター、ジャズやロックミュージシャン、そのほか、ただ単に自由でいたいだけの人など、ありとあらゆる人間がいた。
既成の価値や文化を否定し、壊して新たな自前の文化を創造しようとしている連中である。普通の人たちよりも気性も激しいし、ちょっとしたもめ事なんかも珍しくはなかった。唐十郎率いる状況劇場寺山修司のところを襲撃したという話を耳にしたことがある。これは、唐十郎だったら「いかにも過ぎるほど」ありそうな話なので、私(アナルコ)は全然信じていません。だけど、本当にありそうな話ですよね。
ところで、こういった飲み屋にはどういった人たちが集まっていたのか。
これがまあ、結構いろいろな人が集合していた。例えば、映画人が集まるところだと、監督、助監督、その他のスタッフ、シナリオライター、役者などのほかに、映画専門誌のライター、編集長、編集者、カルチャー誌の記者、編集者など、枚挙にいとまがないくらいなのだ。同じように、演劇人達の集まるところも似たような状態だった。そこで情報が飛び交い、仕事の打ち合わせをしたり、単に酔っ払ったり、の日々が繰り広げられていた。いろんなことをここで決定したりもしたのではないか、と私は推測している。

ここで安田南である。アナルコとしては避けて通れない。

足立正生はここ新宿で安田南を「天使の恍惚」にキャスティングすることを決定したのではないのか。
前にも書いたが、この頃、安田南は業界ではすでに注目を集めていた。本業はジャズ歌手であるが、自由劇場黒テントでの舞台俳優としても活動しており、テレビや映画業界とも少なからぬ関係があったと考えられる。というのも、伊丹十三大橋巨泉などの指名でテレビで唄ったりしているからである。ジャズだけでなく日本語の歌も。
安田南はジャンルを超えて縦断的に活動していて、強烈な個性と存在感を放っていた。
そしてここ新宿には、新しい文化を創造している人間とエネルギーが満ちていた。勿論、映画、演劇、音楽、全部があるのだ。安田南も、人間関係や仕事柄、そこに出入りすることになる。誰かに紹介されてか、何となくかはわからないが、足立正生とも友人になり、そして「あっちゃん」と呼ぶくらいの信頼感を持つくらいになる。
そして、足立正生から「こういう映画を撮るからやってくれないか」というオファーをうけて、安田南が応諾した。
私(アナルコ)の想像でしかないが、安田南の「天使の恍惚」出演の決定は、こういう風に進行したのではないかと確信しています。言うのも今更だけど、オーデイションなんてあり得ないことだ。安田南はそんな形の仕事はしない。

自分でも予想しないでもなかったが、安田南と新宿について、うまく活写出来ませんでした。申し訳ありません。自分が出入りしない分野を書こうとしたことがそもそもの間違いでした。
次回は、もっとましなことを書きます。

安田南 「天使の恍惚」遁走事件の本当の理由 ②

     '72年2月 連合赤軍浅間山荘銃撃戦

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 こんにちは、アナルコです。

安田南 <天使の恍惚>遁走事件の最終章です。

「みんなが(で?)歌える曲じゃないと」

 この一言で喧嘩腰の論争になったところまで、前回書きました。これは若松孝二本人の発言のようです。
これで安田南がキレてしまった。
時間がかかるのと、いったんアタマを冷やす意味もあってか、新宿のバーに場所を移して、双方の意見調整を続けることになった。
今度は、安田南と足立正生の差しでの話し合いである。
この時点では、安田南は降りるつもりもないし、足立正生も降ろすつもりはない。だからこその話し合いである。
 
 「プロだったらやれよ。」  足立正生

だが、場所を変えての話し合いといっても、双方の主張がそもそも平行線なのだから、そう簡単に合意点が見つかるはずがない。

足立 「頼むから(と言ったかどうかはしらないが)、こちらの指示どおり歌ってくれよ」
南  「それは出来ない。大体あっちゃんだって、私とヨースケを組み合わせたらどういうことになるか分かってるでしょうに」

 こんな感じに平行線を辿った話し合いは長引いた。結局は、けんか腰の話し合いである。両者ともにクリエイターであり、表現者である。そこは頑固に譲らない。
 そして、足立正生が決定的なことを言った。

足立 「ミナミもプロだったら言われた通りにやれよ」
南  「プロだからやれないんだよ!(バカヤロー)」

 安田南は、ここで本当にブチ切れた。足立正生に水の入ったコップを叩きつけた。
 それで全てはおしまい。それっきり安田南は姿を消したのです。

<安田南の「天使の恍惚」遁走事件>は、およそこんな風に終結しました。

「理由は音楽、歌。それだけ」

だったのである。

 その後、安田南は何処に居たか? 

 京都に居たのだ。京都の“寂庵”つまり、瀬戸内寂聴のところに身を寄せていたのだ。瀬戸内寂聴と安田南とは、かねてより親交があって、その信頼関係も厚いものがある。二人は、瀬戸内寂聴が得度する前、瀬戸内晴美という人気女流作家時代からのつきあいである。彼女も、自由、奔放、情熱的な女性としてその名を知られていた人物で一世代上の女傑だった。瀬戸内晴美の恋人とも同席して食事などもしている。

 「瀬戸内さんは、なにも訊かずに放っといてくれるから」

と安田南は述懐している。放っといてくれるのをいいことに、滞在している間に一人でいろんな事を、あれこれ考え抜いたのではなかろうか。
いや、安田南のことだ、何にも考えなかったかもしれませんがね。
いずれにしろ、一週間だかひと月だか知らないが、安田南は京都嵯峨野の寂庵で、清貧で(金は持ってない)、静謐な時間をすごして、再び態勢を整えて自分のいるべき場所に戻ったということである。

 

 安田南はオートバイが好きだった、六本木にて

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~安田南と足立正生、相譲れない理由~

ところで、暴論を承知のうえで言ってみたいことがある。
たかが映画、たかが音楽、たかが唄ではないか。なぜ双方ともに譲歩出来なかったのか。
 実際、安田南が降板しても、横山リエで映画は完成しているんだから大したことじゃないような気もする。
だが、このことを深く考えてみると、’60~’70年代がいかに混沌としており、社会も個々人も混乱していたのかが浮き彫りになってくる。
 近代から現代への、戦後史のドラスティックな転換点であり、動乱の真っただ中だったのである。この時期、年齢が3歳違うだけで
全然考え方も価値観も違うし、生まれた場所や育った場所でも違うのだ。カオス状態の中、そこでは個々人が、全く新しい価値や文化、思想を創造するしかなかった。
 まあ、このように話を広げると、それこそこちらが混乱するので元にもどります。
 
 ー安田南の立場ー
 安田南は日頃から「信頼できる人間としか仕事はしたくない」と言っている。この場合の、信頼できる、とは極めて緩やかな基準で、礼儀正しいとか、筋を通す人とか、南が信頼してる人の紹介であるとかであれば、要するに無礼者やいい加減な人間以外は基準におさまると言える。そして、自分の方から売り込むことはしなかった。例えば、ファーストアルバムが遅かった理由もここにある。クラブで唄っていると、レコード会社の人間がよく聴きに来て、そこはまあクラブだから、酔っ払って、「レコード出そうよ」と話を持ちかけてくる。安田南は、酔ったうえでの話は聞き流していた。それが業界のやり方なのか、素面で安田南とは対面しにくかったのか、どうだかは不明だが、安田南は全部無視していた。ある日キングベルウッドのディレクターから、素面の、そして正面からの依頼を受けて、あっさりとOKしたという。これだけでも信頼できる範囲に入るのだ。それがあのロブロイでのライブアルバムである。
 そこで、足立正生はどうか。
 安田南は足立正生を大いにといってもいいほど信頼していた。彼のことを「あっちゃん」と呼んでいたことからもそれはわかる。当然ながら彼女の行動範囲や交友関係からも、足立の仕事ぶりは知っている。恋人の中平卓馬が足立と親しかったかどうかはこの際関係ない。
 前回、安田南が(映画のことでは)「殆んどあっちゃん(足立正生のこと)としか話さなかった」と言ったことを書いた。この言葉は足立正生への信頼感を表明している。<天使の恍惚>は、実際には足立正生が回している。監督としてメガホンを握っているのは若松孝二だが、それは何といっても彼がメジャー、いやマイナーのメジャーかな?監督であり、その大衆性は集客を見込めること、映画製作のための集金力もあったことが理由の一つだと考えられる。足立正生は一般的には無名の存在にすぎないのだ。勿論、足立正生には全幅の信頼を寄せていただろう。世代的にも、この映画は足立の得意分野である。
 こういう話は、また別のところに譲ることにして、安田南と足立正生である。

「殆んどあっちゃん(足立正生のこと)としか話さなかった」
と安田南が言ったほどの信頼感に、「ン?」と思わせる場面が来る。レコーディングの時だ。山下洋輔トリオとのレコーディングセッションにNG が出たときである。問題点調を調整するのに、ミュージシャンがいるスタジオと、若松孝二のいるミキサールームとの間を、足立が何度も何度も往復し、まるで伝言ゲーム状態になったときだ。
「何か、南と若松監督が直接会話しないようにしてるみたいな感じがちょっとした」
問題があれば、直に話したくなるのは自然なことだ。少しは話し合えたようだが、長時間の議論のあとのことだ。頭に血が上った状態で、首尾よくおさまるわけがない。一曲だけ、たった一回のセッションが音源として残ったわけだが、安田南は
「出来が不満足なので録りなおすつもりだった」
と言っている。降りるつもりはなかった。

信頼感がほんの少しだけ揺らいだ程度だった

 ―足立正生の立場ー

  ひと言お断りしておきたい。私は若松プロについては、直接には何も知らないに等しい。したがって、ここは推論、推測が多いことになります。但し、若松映画に好感を持ってても、悪意はないことを強調しておきたい。誤解のないように。
 で、足立正生である。無論のこと彼は映画を撮る側であり、助監督だ。監督は若松孝二だが、その信頼を受けて指揮権は相当なものだったと考えてもよい。
 ところで、映画製作の現場は、知ってる人も多いと思いますが、これがビックリするほど封建的というか、前近代的な社会なのだ。それはある意味当たり前のことで、監督が絶大な権力をふるってこそ、彼の意図する映画作品は作ることができるのだ。俳優はその指示通り動かなけれならない。
 つまり、彼らは出演者が異を唱えることに慣れていないのだ。ところが安田南は当たり前のように自分のやり方を主張し、素直に指示に従おうとしない。それも「女」に異を唱えられた。内心アタマにきただろう。しかも、たかが歌ではないか。
 「天使の恍惚」は、atgと手を組んでの映画だ。力の入れようも違っていた。権力に対する爆弾闘争をメインテーマに、女優に安田南を起用し、音楽には、山下洋輔トリオと安田南である。足立正生は、たぶんそれだけで充分だったのではないだろうか。テーマと配役だけでも十分に日本映画の前衛を走れる。歌はある意味どうでもいい。歌手が安田南であることに意味がある。安田南がそれらしい歌を唄ってくれればいい、ということだったろう。
 推測でしかないが、足立が「プロだったら言われた通りにやれよ」と言ったのはおそらく本音だろうと思います。映画作家からすれば、自分のシナリオどおりに進行しないのは我慢できないことであろう。
 
 安田南の足立に対する信頼も、足立の「プロだったら云々」の一言で崩れてしまった。
 「お前、その程度かよ」
 安田南はそう感じた。山下洋輔と安田南を組み合わせたらどうなるか、という実験精神や創造性もないのかよ、というわけだろう。
 実をいうと安田南は足立と、例のギターをポロンポロン弾きながら歌って見せて、「こういう曲です」と楽曲なるものを提供した秋山某の二人を、心底から許さない気持ちだったようだ。というのも、足立がパレスチナに渡って日本赤軍に合流した時、 
「だったらもういい。認めるわよ」
と言ったのを聞いて、そう感じるものがあった。
秋山某については、誰かから、「あいつは今バナナの叩き売りをやってる」と聞かされた時
「許すわよ」
と言った。
 武装闘争をプロパガンダするメッセージソングを無理やり歌わそうとしたり、「赤軍PFLP世界戦争宣言」なる映画を撮って、<武装闘争こそ最大の(最高の、だったかな?)プロパガンダである>というプロパガンダを安全な日本でやる。これは、主に東京の出版や文化周辺に寄生している政治ゴロや文化ゴロと同じだ、と考えてたのではないか。と私は推測している。中らずと雖もそう遠からず、だと思うが、いかがなものでしょうか。
 
 本当はまだまだ書きたいことが沢山あるけど、長くなるので「天使の恍惚」遁走事件の顛末はおおよそこんなものだった、って事で、これくらいにしておきます。
 次は、安田南がなぜジャズ歌手になったのか、について考察したいと思います。
 疲れるので、もっと短く簡潔に、かつ気楽な報告にしたいと思います。

安田南 「天使の恍惚」遁走事件の本当の理由 ①

 こんにちは、アナルコです
  やっと安田南についての本題に入りたいと思います。実は私はパソコン作業は全くの素人です。ましてやブログなんてどうすればいいのかよく理解できていません。ほんとうは写真などもつけたいけどやり方がよくわかりません。その代わりと言うのもなんだけど、私(アナルコ)が実際に見たことや、本人たちから聞いたことしか書きません。私の推測や伝聞はそうと分かるように書くようにします。もしこれを読んでいる人がいたら、アレレ?と思うこともあるかもしれません。良くも悪くも伝説的だったり凡庸だったりすると思います。それでも安田南の生きる態度や思想信条には凄いものがあります。思想信条なんてのは少し違うような気もしますが、ことばがすぐには見つからないんで勘弁してください。<安田南とその時代>を活写できればいいんですが、もしそうでなければ、それはひとえに私の力量不足によるものです。ご容赦下さい。それともうひとつ、私アナルコが安田南と親しくなったのは、彼女の男性遍歴のなかでいえば、中平卓馬以降のことです。ですから中平卓馬以降、要するに‘70年代以降は鉄板の真実(事実)です。中平卓馬以前についても本人に聞いたこと、ジャズ仲間に聞いたこと等をベースに書き進めます。概ね正確な情報だと自信を持って言えます。

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「理由は音楽、歌。それだけよ」 安田南 談
   いよいよ本題です。安田南が若松孝二の映画「天使の恍惚」のクランクイン間もなく姿を消した事件、遁走事件については、憶測も含めてまあいろいろと語られている。‘70年代初頭の動乱の季節である。左翼過激派は公然と軍事について語り始めていた。実際、日航機ハイジャック、自衛隊や交番を銃を奪う目的で襲撃、爆弾闘争等々の事件が頻発していた。そういった一連の流れのなかで、公安警察から身を隠すために潜伏せざるをえない事情があったのではないか、と推測する人もいた。
 若松孝二監督は記者会見まで開いて、「天使の恍惚」のあまりの凄まじさに恐れをなした安田南が出演料の一部をもらったまま逃げ出した。絶対に見つけ出して、このオトシマエはつけてやる。と息巻いてみせた。若松映画である、確かにセックスとヴァイオレンス、それに爆弾闘争ありで,凄まじい映画かもしれないが、安田南はそんなことで逃げ出すようなタマではない。
 後になって、この映画の助監督をやっていた足立正生は、南さんは演技ができないから降りてもらった、という旨の白々しい発言をしている。面の皮の厚い男である。そもそも安田南をキャスティングしたのは足立なのだ。安田南が自由劇場や演劇センター68~71、そして黒テントで女優として活動していることも承知の上でキャスティングしたのは明々白々である。まさか本気で新宿のフーテン娘を起用したなどとは言えないはずだ。安田南はすでに業界では有名で、その存在はよく知られていた。それに、新宿アートシアターの壁には安田南のハダカのスチール写真が貼られていた。勿論「天使の恍惚」の宣伝目的である。安田南に降板してもらう意志などさらさらなかったのだ。
 誰もが本当のことを言ってない。
 
 私は単刀直入に安田南に遁走の理由を訊いてみたことがある。彼女の答えは簡単な一言だった。
 
「理由は音楽、歌。それだけよ」   
 
拍子抜けするほど即座に、そして短い回答だった。
 だが、さらに話を続けると、安田南の歌を唄うことへの姿勢というか、態度がいかに厳しいものかを思い知らされることになった。
 とりあえずその時に起きたことを書くことにします。

まず、若松映画の看板の一つである、セックスとヴァイオレンスの<凄まじい>シーンを撮り終えた。
 問題はその後に開始した音楽である。当時としては大きなセールスポイントになったであろう、山下洋輔トリオと安田南、の見せ所でもあった。アヴァンギャルドなフリージャズを身上とする山下洋輔トリオとアングラの女王安田南、双方ともにカウンターカルチャーの象徴的存在である。何が起こるか予測不可能な組み合わせは評判を呼ぶこと請け合いだからだ。たぶんこれは若松というよりも足立が仕掛けたことと考えられる。何故ならば安田南本人が
 
「殆んどあっちゃん(足立正生のこと)としか話さなかった」

と証言しているからだ。
 この時に提示された楽曲を巡って揉めたのだ。安田南の言葉を借りればこうである。
 
「べ平連あたりで反戦フォークか何かを歌っていそうな兄ちゃんが来て、生ギターをポロンポロンやりながら歌って見せて、『こういう歌です』ってやるのよ。」
 
 安田南は日本の反戦フォークやメッセージソングを冷ややかに見ていた。だがそれは、反戦フォークやメッセージソングそのものを否定していたわけではない。その日、その場所にしか通用しない歌=数年後には何の意味もなさない歌、を押しつけがましく聴かされたり、歌わされたりすることを拒絶していたのだ。
 例えばヴェトナム反戦歌が今現在意味を持つか?当時ヴェトナム反戦は誰にも否定できない正義だった。そして誰にも反対できない絶対的正義を押し付けてきたのが反戦フォークやメッセージソングだった。誰にでも分かりやすいい言葉で、誰でも歌えるメロディで。そこに普遍性はないし、抽象レベルも低い。だから、反対はしないがとりあえず拒絶もしくは警戒する術を身につけていた。
 誰も反対できない正義、というのが先ず怪しい。
 平面的に考えては間違ってしまう。重層的に考えることが必要だ。
 こういうことを安田南は直感的に見抜いていた。天性のものなのか、後天的に自分で身につけたものなのかはわからない。傍から見ていると天然にしか見えないが、こうして直面している問題を考えに考え抜いてから結論を出すのだ。周囲の人間が思いもかけないような、唐突で突飛な結論だったりすることも度々で、大問題になったりすることもある。こうなるとテコでも動かない頑固な一面も覗かせたりする。トラブルメーカーと言われる所以であろう。

 ハナシが横道にそれそうになりました。映画に戻ります。
 
 ともかく、そのような形で楽曲を提供された時、彼女は警戒して一瞬身構えたのではなかろうか。そしてそれは正解だった。後になって私がその歌詞を見て、ニヤリと、いや苦笑かな、ともかく笑ってしまったくらいだから。あ、こりゃムリだ。ちなみに、音符は見てません。
 
 「まず歌詞がヒドイのよ。とんでもなくおセンチで、詩的言語とまでは言わないけど、もう少し何とかならないのかな。このままじゃとてもじゃないけど南唄えない。」
 
その通りなのが苦しいところだ。
 安田南は日本語の歌も唄っている。人によっては日本語のほうがいいと言うくらいだ。
 ’70年代を日本映画を観ながら過ごしていた人は「赤い鳥逃げた?」「愛情砂漠」をすごくいい、と言ったりする。福田みずほの作詞だったと思う。
 アルバムとしては「Some Feeling」が全て日本語だ。こちらは劇作家の佐藤信、加藤直、斎藤憐といった錚々たる顔ぶれが作詞者として並んでいる。劇中歌だから当然といえば当然ともいえるが、全員がアンダーグラウンド運動の最先端を担っていた。安田南自身も2曲作詞している。
 共通するのは、全体に抽象レベルが高いところだ。誤解しないでもらいたいが、抽象的だという意味ではない。普遍性がある、ということだ。
 日本語の歌は難しい。作り手も歌い手も聴き手も、同じ日本語だから安易に全て了解しあってる、という前提に立ってしまうと表現行為が怠惰になってしまう。
 またハナシが横道になりそうなので映画に戻ります。

 「せめて曲が良ければ何とかなるんだけど、、」

 と、安田南は言った。だが多分それは無理だったろうと考えざるを得ない。なにしろ山下洋輔トリオとセッションするのだ。曲がよかろうが何だろうが山下洋輔のことだ、表現は悪いがメチャクチャに弾きまくるだろう。いや、お願いすれば山下洋輔だって、いわゆる歌伴としての役割を演じてくれたかもしれない。だが安田南には、その選択肢はなかった。フリージャズのトップランナーである山下洋輔、ではない「山下洋輔」と共演しても、意味がない。それに、それは山下洋輔に失礼だからだ。
 だが安田南もプロフェッショナルである。歌も唄う女優としてここにいる。楽曲も提供されているのだ。だから安田南はやった。実はやりきったのだ。

 「あの歌詞をどうしたらいいか、それが一番問題だったの。それで、
『弁慶が、なぎなたをな、、、、、、』を
『ベンケイガナ/ギナタヲナ/、、、、、』とやる、あのやり方で言葉の意味をなくしたのよ、記号みたいにした。(勘違いしたド素人の)あのおセンチな歌詞を意味のないものにしたわけよ。」
 「ここは静かな最前線」だとか「俺たちの戦場」、「武器を握りしめて」、「戦いに行かなければ」とか、決意表明だか政治的アジテーションだか、何らかのプロパガンダでしかないセンチメンタルな歌を記号的なものに変換してしまったのだ。

 あとは出たとこ勝負である。メロディ(楽曲)なんか知ったことじゃない。なにしろ相手は山下洋輔トリオだ、そんなものはぶっ飛んでしまうに決まってる。映画には登場しないが、「天使の恍惚」のサウンドトラックの中にある。横山リエとクレジットされているが、(知ってる人は知ってるだろうが)実は一曲だけ山下洋輔トリオとのセッションがある。どこかにアップされてるので検索して聴いてみてほしい。『ウミツバメⅤer.2』だ。アヴァンギャルドな仕上がりなのでなじめない人もいると思うが、もし現場で実際に聴くと、感動したに違いない。
 
 私は、たった一度だけ安田南と山下洋輔のセッションに遭遇したことがある。それは、山下洋輔が組織した全中連(全国冷し中華連盟)というふざけた集まりの集会(宴会)でのことだった。山下洋輔、密室芸人だったタモリ等と、そのファン達が集まってのイベント(要するに大宴会)でのことだった。それに安田南も呼ばれていた。フィナーレのメインステージ、「ミナミを聴いてないぞ、ミナミを出せ」のコールに応えて山下洋輔と安田南が登場。打ち合わせなしの完全なアドリブセッションである。たぶん誰もが安田南が歌を唄い、山下洋輔が伴奏すると思っていた。
 ところがそこは山下洋輔である。山下節、つまりは何のメロディも感じさせないインプロビゼーションを始めたのである。これでは安田南が歌を唄うことはできない。どうなることか、と一瞬場内は静まり返ったが、安田南はメロディも歌詞もないスキャットでのインプロビゼーションで応じたのだ。緊張感のあるセッションだった。よく言われることだが、声、つまり肉体は最高の楽器であることを見せつけられたのだ。私はフリージャズは聴かないし、あまり好きではないのだが、この時ばかりはひどく感動してしまったことを鮮明に記憶している。いやあ、全く驚嘆してしまった。山下洋輔にしてみれば自分のスタイルを崩すつもりはないし、南だったら大丈夫だろうと考えたのだろう。いや、もしかしたらお手並み拝見といった気持ちだったのかもしれない。とはいえ、聴き手に分りやすいメロディも歌詞もない音楽でここまで感動させられるとは思いもしなかった。といって、その後私自身がフリージャズを好きになったわけではないけど、、、、。
 
 ともかく「天使の恍惚」のスタジオで同じようなセッションが行われたのだ。安田南は与えられた楽曲で、山下洋輔トリオとの共演を、とりあえず一曲やりきったのだ。
 ところがここで問題が発生した。
 これにNGが出たのだ。その調整のために足立正生がスタジオとガラスの向こうの若松孝二との間を行ったり来たりすることになる。

足立 「もっとまともな唄をやってくれ。と若松監督は言っている」
南  「まともも何も、こちらは真面目に真剣にやっている」

 足立、ドアを開けてミキサールームにいる若松と何やら話し合って、戻ってくる。

足立 「渡した楽曲があるだろう、そのようにやってくれればいい、と監督が言ってる」

南  「その楽曲をやっている。ヨースケとミナミが演るとこうなる」

足立、去って戻ってくる。

足立 「だから、監督の要求は、もっと普通で、まともで、わかりやすい歌をってことだ。わかるだろう?」

南  「そんなことは分かってる。だったら普通に、まともな、楽曲をもってきなよ。」    

足立、去って戻ってくる、、、
 
 再現した言葉はこの通りではないだろうが、大体こんな内容の応酬が、かなり長い時間あったようだ。こんなやり取りをしていると、当たり前だが双方ともに興奮状態になり、収拾がつかなくなる。
 このけんか腰の口論(論争?)のさなか、騒音状態の中、むこうの方で待機していたドラマーの森山威男が小声で「怒ってるミナミさんってキレイだな」と呟いたのが安田南に聞こえたそうだ。そんな出来事を苦笑いしながら安田南が話してくれたことがある。これ、余談です。 
 録音スタジオに戻ろう。
 とにかく当たり前だが、合意点が見つからないまま、喧嘩腰の話し合いが続けられた。そこに決定的であろう一言が投下された。

 「みんなが(で?)歌える曲じゃないと」

 この言葉、若松孝二本人の発言なのか、若松からの伝言として足立が発言したのか判然としないのだが、もはやそれはどうでもいい。
 あの荒ぶる若松孝二よ本当か?である。
 安田南は当然ながらキレてしまった。
 女優としての台詞なら、ここは戦場だ、とか、武器を持って闘いに行かねばも、ありであろう。全体の流れのなかの一部分でしかない。
 しかし、この映画に限って言えば、音楽、歌は別に考えてしかるべきだろう。「金曜日」という役柄を与えてるとはいえ、安田南とわからせる設定になっているからだ。明らかに「金曜日」ではなく、安田南だからこそ長い時間の歌唱場面が用意されていると言わねばならない。
 「みんなが(で?)歌える」なんて、日本共産党の‘うたごえ運動’か‘歌声喫茶’か反戦フォーク集会なんかと質的には同じレベルでしかないというべきだろう。「金曜日」ではなく、安田南がそんな歌を唄うはずがない。
 とはいえ、もうクランクインしたのだ。このあと新宿のバーでまだ会議は続けられた。

 ここまで来て、慣れないパソコン作業、アナルコは疲れてしまいました。続きは次にします。

       
       


 今日は、アナルコです。
 本題の「天使の恍惚」事件について書く前に、一つの問題というか私の疑問を提起しておきたいと思います。それは
  「安田南は本当に死んだのか?」 
という疑問です。
 ネットが彼女を殺してるんじゃないのか? ということです。
 私は安田南の生死は、本当のところ大して問題にしていません。60~70年代を疾走し、唄に芝居に文筆に強烈な存在感を見せた彼女。
 そして突然姿を消した。そのまま誰もその行方を知らない。
 カッコイイのである。
 とりわけ60~70年代という動乱期を若い頃に共有し体験した人間にとっては格別な思い入れがあるだけに。ということになる。
 21世紀の今、あらためて安田南の唄を聴きなおしてみると、その凄さがよくわかる。
 評価は分かれたりしているようだが、実は彼女は歌がうまい。
 英語の発音だってすごくいい。
 スイング感も並外れたものがある。
 現在聴いても全然時代を感じさせないというか、古びた感じがしない。説得力があるというか、こちらの心にしみいるのだ。
 
 話が横道になりかけたが、安田南を追憶して、同時代を生きた動乱期を想い、少しばかり涙を流してもいい、それはカタルシスだから悪いことではない。
 だが、本当に死んだのか?
 誰に聞かされた?
 ネット情報じゃないのか?

 ネット社会はとても危ない。流言もデマゴギーも繰り返し繰り返し発信されると事実になってしまう。悪意がなけれないほど真実味を帯びてくる。
 「安田南の死」も、もしかしたらそういうことではないのか?
 とはいえ人の生死を嗅ぎまわるなんてことは、その人に失礼なばかりか、迷惑かもしれません。私が安田南の生死を大して問題にしてない、というのはそういう理由かな?

 私は「安田南の生死」について、可能な限りつぶさにネットを検証してみました。すると驚いたことに確たる情報がないのです。伝聞でしかないものばかりでした。どこで亡くなったのか、死因は?墓はどこにあるのか?そもそも亡くなった年月日ですら明確ではないのです。
 とはいえ、彼女と近しい人の証言や、イベントめいたものをネット上で見ることができます。これがとても怪しい。
 例えば写真家の森山大道が「安田南はもう鬼籍に入った」と言ったそうだが誰が聞いたのだろうか。
 「闘病している安田南を励ます」イベントがあって、それには赤瀬川源平も出席した。そしてそのことが某大新聞にも掲載されたというが、どの新聞なのか誰も知らない(言わない)。まあきょう日、大新聞もあやしいものだけど。
 ここに挙げた人たちの名前を見たら、60~70年代を体験した世代はまず文句なしに信じてしまうだろう。
 それぞれが今や伝説的な存在なのだから。
 伝説のジャズ歌手にふさわしい陣容と言えるでしょう。
  
 森山大道は当時バリバリのアヴァンギャルド写真家で、中平卓馬と共に写真同人誌「プロヴォーク」を拠点に既成の写真文化と対峙して、<闘う>と形容するのにふさわしい活動をしていた人物だ。
 中平卓馬森山大道は日本中の写真家や写真家を目指す若者たちの注目の的であり憧れの的だった。
 その当時の中平卓馬の恋人が安田南だった。二人は可能な限り行動を共にしていたから必然的に、安田南と森山大道は知己の仲である。であるがほどなくして安田南と中平卓馬は別れてしまう。そうなると森山大道と安田南は疎遠になり、交流がほとんどなくなるし、連絡先もお互いに知らなかったはずである。
 安田南の近況さえ知らない森山にその訃報が届くとは考えられない。 

 赤瀬川源平も、あれはイラストと言ってもいいのかな?そのイラストレーターの最前線に立っていた。私が知っている限りでは「美術手帳」誌や「朝日ジャーナル」が多かったような気がする。もしかしたら個展なんかもじゃんじゃんやってたのかもしれないが、そっち方面は私はしらない。
 間違ってた。赤瀬川は現代美術の人だった。
 その朝日ジャーナルでは同時期に安田南、中平卓馬も書いたり撮ったりしていた。赤瀬川と中平は、イラスト+文章、といった形での共同作業としてもジャーナルに載せてたと思う。
 赤瀬川源平朝日ジャーナル誌上に、有名な<アカイ アカイ アサヒ アサヒ>を掲載。これが日本新聞協会をも巻き込んだ大問題になり、ジャーナル誌の回収やら、人事異動やら、それはもう大変な騒ぎで、川本三郎週刊朝日から朝日ジャーナルに異動したのはこの時じゃなかったかな。間違ってたらゴメン。
 この事件が、数年後「朝日ジャーナル」誌の廃刊につながったのではなかったか。
 その後、赤瀬川源平中平卓馬は、「赤馬が見たり」などという冗談としか思えないふざけたコラボ仕事を「映画批評」誌上でやったりしていた。
 この赤瀬川源平と安田南の親交も、中平卓馬とセットでのつきあいだった。当然のこと疎遠になっていたとしか考えられない。
 
70年代といえばそれぞれの場所でそれぞれが最前線で悪戦苦闘の日々を過ごしており、特段の用でもない限り連絡をとる余裕もないはずだ。携帯なんて無かった。あっても持つような人たちではない。
 
それから何年も経過しているのだ。安田南は何度も引っ越しをしている。そのたびに電話番号(家電!)を知らせるような人ではない。赤瀬川が「励ます会」に出席したなんて誰が言った?

そして、安田南がこの世にいない、ということに非常に説得力を与えているなあ、と思ったのが「ジャズ批評」誌上における劇作家佐藤信へのインタビュー記事である。これは佐藤信、インタビュアー双方が共に安田南がとっくに死んでいるという前提で話しているのだ。
 佐藤信と安田南は目黒十中以来の幼馴染というか、竹馬の友というべきか、盟友ともいうべき関係である。佐藤はしばしば安田宅を訪れており彼女の家族とも顔見知りの仲であったらしい。この二人が恋人同士であったことはないようだが、のちに俳優座養成所の仲間たちともしよっちゅう安田宅に出入りしていたという。さらに自由劇場黒テント日劇など、佐藤信演出の舞台にしばしば安田南は呼ばれている。芝居が出来て、踊れて、歌える役者、それもいい役者はそうそういるわけではない。
 その佐藤信でさえ安田南が失踪した頃は、劇団の運営や劇作家個人としての仕事などで、とてもじゃないが多忙を極めており、仕事の話でも発生しない限り連絡をとるような精神的余裕もなかったのではないか。60年代から続くカウンターカルチャーも転換期を迎えていたからである。その点では安田南も同様である。ましてや安田南は他人に相談したり、自分から連絡をとるような性格ではない。じっと一人で考えに考えて、他人から見ると唐突に見える決断を下すタイプなのだ。
 佐藤信がふと気が付いた時には安田南が今現在どうしているのか、もはや全く分からなくなってしまっていた、といったところが本当ところだと思えるのだ。
 もはや伝聞しか知りようがなく、もしかしたらパソコンで検索する方法しかなかったのではないか。

 この三人を例にあげて考えてみると見えてくることがある。それは彼らとて確たる情報を持ち合わせていないように見えることだ。三人ともに、安田南と60、70年代を同じ場所であったり、そうじゃなくても極めて近い所で生きていた。この頃は、日本の文化や政治の一大転換期であり、ある時は仲間、ある時はいわば共闘関係の同志といった感じだったと考えてもいいだろうと思います。それぞれ自分の持ち場があって、それこそ一杯一杯で、安田南が姿を消したことは知っていても、気にかける余裕もなかったのではないか。まあ噂話程度は耳に入ったかもしれないが。そうこうするうちに数年が経過してしまった。そして、世はインターネットの時代、検索してみると南は死んだらしい。少しばかりショックを感じても、
それを受け入れることはどうってこともないだろう。

 私(アナルコ)は安田南が生きているとか、死んでしまってるとか、そういうことを問題にしたいわけではない。私はどちらの立場もとりません。ただネット社会はアブナイと言いたいだけです。
 編集者やライターと思われる人たちが安田南について、率直に素晴らしいコメントや分析や文章を提供してくれています。そうか、と素直に感動してしまうこともしばしばです。だけども他人の生死をあまりにも無造作に取り扱っているように感じます。仕方ないとも思います。伝説ですからね。
 ただ一つだけ、これは絶対に許せない記事があります。それは
あの大新聞「朝日新聞」です。
 少し前の記事ですが、朝日の日曜版か何かで例の「ぷかぷか」のモデル「あん娘」を捜すといった内容のものです。
 新聞記者たるもの、取材対象を追う時は地道にウラを取って事実を積み重ねて記事にするものだ。ところがその内容はネットで知りえる範囲を超えていないのだ。安田南の痕跡をたどった気配さえないのだから。ブンヤだったら安田南の墓のありかくらい探し出せよと言いたくなる代物でしかないのだから呆れる。記者にしてみたらそんなに力も入らないクズ仕事だったかもしれないが、こちらは購読料払って読んでいるんだから。
 おそらくネット検索を武器にして軽く書き上げたんだろうが、ネットでは知りえない情報の一つでも掲載してほしいものだ。下北沢あたりのジャズクラブのマスターに安田南についていろいろ話を聞いて、取材費で一杯飲んで一丁上がりといったところだろう。
 私たちは、こういういい加減なメディア環境の中で生活しているのだ。
 ハナシが大袈裟すぎると思う人もいるだろうが、ここはあえて言っておきます。トランプのアメリカだってツイッターで一方的に大量のプロパガンダを流しておいて、その後に記者会見の体もなしてない記者会見をやって危ない歴史を作り出そうとしている。かく言う私もこんなブログを開いて、これも一方的な情報を提供しようとしている。この空間は極端なポピュリズム空間になりやすい。
 一方で既成のメディアも、ずっと昔に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と赤瀬川源平に揶揄されたことも忘れてしまったかのようだ。
 私たちも、くれぐれも気をつける必要があると思います。フィクションではなく、実在の、もしくは実在した人物について書く時には特に、その情報を丁寧に取り扱うことが要求されていると思います。

 前置きが長くなりすぎました。本題の安田南の「天使の恍惚」遁走事件については次にしたいと思います。これは本人から直接聞き取った話があるので、出来るだけ急いで出したいと思います。

 
 

 
 
 

 

         


 今日は、アナルコです。
 本題の「天使の恍惚」事件について書く前に、一つの問題というか私の疑問を提起しておきたいと思います。それは
  「安田南は本当に死んだのか?」 
という疑問です。
 ネットが彼女を殺してるんじゃないのか? ということです。
 私は安田南の生死は、本当のところ大して問題にしていません。60~70年代を疾走し、唄に芝居に文筆に強烈な存在感を見せた彼女。
 そして突然姿を消した。そのまま誰もその行方を知らない。
 カッコイイのである。
 とりわけ60~70年代という動乱期を若い頃に共有し体験した人間にとっては格別な思い入れがあるだけに。ということになる。
 21世紀の今、あらためて安田南の唄を聴きなおしてみると、その凄さがよくわかる。
 評価は分かれたりしているようだが、実は彼女は歌がうまい。
 英語の発音だってすごくいい。
 スイング感も並外れたものがある。
 現在聴いても全然時代を感じさせないというか、古びた感じがしない。説得力があるというか、こちらの心にしみいるのだ。
 
 話が横道になりかけたが、安田南を追憶して、同時代を生きた動乱期を想い、少しばかり涙を流してもいい、それはカタルシスだから悪いことではない。
 だが、本当に死んだのか?
 誰に聞かされた?
 ネット情報じゃないのか?

 ネット社会はとても危ない。流言もデマゴギーも繰り返し繰り返し発信されると事実になってしまう。悪意がなけれないほど真実味を帯びてくる。
 「安田南の死」も、もしかしたらそういうことではないのか?
 とはいえ人の生死を嗅ぎまわるなんてことは、その人に失礼なばかりか、迷惑かもしれません。私が安田南の生死を大して問題にしてない、というのはそういう理由かな?

 私は「安田南の生死」について、可能な限りつぶさにネットを検証してみました。すると驚いたことに確たる情報がないのです。伝聞でしかないものばかりでした。どこで亡くなったのか、死因は?墓はどこにあるのか?そもそも亡くなった年月日ですら明確ではないのです。
 とはいえ、彼女と近しい人の証言や、イベントめいたものをネット上で見ることができます。これがとても怪しい。
 例えば写真家の森山大道が「安田南はもう鬼籍に入った」と言ったそうだが誰が聞いたのだろうか。
 「闘病している安田南を励ます」イベントがあって、それには赤瀬川源平も出席した。そしてそのことが某大新聞にも掲載されたというが、どの新聞なのか誰も知らない(言わない)。まあきょう日、大新聞もあやしいものだけど。
 ここに挙げた人たちの名前を見たら、60~70年代を体験した世代はまず文句なしに信じてしまうだろう。
 それぞれが今や伝説的な存在なのだから。
 伝説のジャズ歌手にふさわしい陣容と言えるでしょう。
  
 森山大道は当時バリバリのアヴァンギャルド写真家で、中平卓馬と共に写真同人誌「プロヴォーク」を拠点に既成の写真文化と対峙して、<闘う>と形容するのにふさわしい活動をしていた人物だ。
 中平卓馬森山大道は日本中の写真家や写真家を目指す若者たちの注目の的であり憧れの的だった。
 その当時の中平卓馬の恋人が安田南だった。二人は可能な限り行動を共にしていたから必然的に、安田南と森山大道は知己の仲である。であるがほどなくして安田南と中平卓馬は別れてしまう。そうなると森山大道と安田南は疎遠になり、交流がほとんどなくなるし、連絡先もお互いに知らなかったはずである。
 安田南の近況さえ知らない森山にその訃報が届くとは考えられない。 

 赤瀬川源平も、あれはイラストと言ってもいいのかな?そのイラストレーターの最前線に立っていた。私が知っている限りでは「美術手帳」誌や「朝日ジャーナル」が多かったような気がする。もしかしたら個展なんかもじゃんじゃんやってたのかもしれないが、そっち方面は私はしらない。
 間違ってた。赤瀬川は現代美術の人だった。
 その朝日ジャーナルでは同時期に安田南、中平卓馬も書いたり撮ったりしていた。赤瀬川と中平は、イラスト+文章、といった形での共同作業としてもジャーナルに載せてたと思う。
 赤瀬川源平朝日ジャーナル誌上に、有名な<アカイ アカイ アサヒ アサヒ>を掲載。これが日本新聞協会をも巻き込んだ大問題になり、ジャーナル誌の回収やら、人事異動やら、それはもう大変な騒ぎで、川本三郎週刊朝日から朝日ジャーナルに異動したのはこの時じゃなかったかな。間違ってたらゴメン。
 この事件が、数年後「朝日ジャーナル」誌の廃刊につながったのではなかったか。
 その後、赤瀬川源平中平卓馬は、「赤馬が見たり」などという冗談としか思えないふざけたコラボ仕事を「映画批評」誌上でやったりしていた。
 この赤瀬川源平と安田南の親交も、中平卓馬とセットでのつきあいだった。当然のこと疎遠になっていたとしか考えられない。
 
70年代といえばそれぞれの場所でそれぞれが最前線で悪戦苦闘の日々を過ごしており、特段の用でもない限り連絡をとる余裕もないはずだ。携帯なんて無かった。あっても持つような人たちではない。
 
それから何年も経過しているのだ。安田南は何度も引っ越しをしている。そのたびに電話番号(家電!)を知らせるような人ではない。赤瀬川が「励ます会」に出席したなんて誰が言った?

そして、安田南がこの世にいない、ということに非常に説得力を与えているなあ、と思ったのが「ジャズ批評」誌上における劇作家佐藤信へのインタビュー記事である。これは佐藤信、インタビュアー双方が共に安田南がとっくに死んでいるという前提で話しているのだ。
 佐藤信と安田南は目黒十中以来の幼馴染というか、竹馬の友というべきか、盟友ともいうべき関係である。佐藤はしばしば安田宅を訪れており彼女の家族とも顔見知りの仲であったらしい。この二人が恋人同士であったことはないようだが、のちに俳優座養成所の仲間たちともしよっちゅう安田宅に出入りしていたという。さらに自由劇場黒テント日劇など、佐藤信演出の舞台にしばしば安田南は呼ばれている。芝居が出来て、踊れて、歌える役者、それもいい役者はそうそういるわけではない。
 その佐藤信でさえ安田南が失踪した頃は、劇団の運営や劇作家個人としての仕事などで、とてもじゃないが多忙を極めており、仕事の話でも発生しない限り連絡をとるような精神的余裕もなかったのではないか。60年代から続くカウンターカルチャーも転換期を迎えていたからである。その点では安田南も同様である。ましてや安田南は他人に相談したり、自分から連絡をとるような性格ではない。じっと一人で考えに考えて、他人から見ると唐突に見える決断を下すタイプなのだ。
 佐藤信がふと気が付いた時には安田南が今現在どうしているのか、もはや全く分からなくなってしまっていた、といったところが本当ところだと思えるのだ。
 もはや伝聞しか知りようがなく、もしかしたらパソコンで検索する方法しかなかったのではないか。

 この三人を例にあげて考えてみると見えてくることがある。それは彼らとて確たる情報を持ち合わせていないように見えることだ。三人ともに、安田南と60、70年代を同じ場所であったり、そうじゃなくても極めて近い所で生きていた。この頃は、日本の文化や政治の一大転換期であり、ある時は仲間、ある時はいわば共闘関係の同志といった感じだったと考えてもいいだろうと思います。それぞれ自分の持ち場があって、それこそ一杯一杯で、安田南が姿を消したことは知っていても、気にかける余裕もなかったのではないか。まあ噂話程度は耳に入ったかもしれないが。そうこうするうちに数年が経過してしまった。そして、世はインターネットの時代、検索してみると南は死んだらしい。少しばかりショックを感じても、
それを受け入れることはどうってこともないだろう。

 私(アナルコ)は安田南が生きているとか、死んでしまってるとか、そういうことを問題にしたいわけではない。私はどちらの立場もとりません。ただネット社会はアブナイと言いたいだけです。
 編集者やライターと思われる人たちが安田南について、率直に素晴らしいコメントや分析や文章を提供してくれています。そうか、と素直に感動してしまうこともしばしばです。だけども他人の生死をあまりにも無造作に取り扱っているように感じます。仕方ないとも思います。伝説ですからね。
 ただ一つだけ、これは絶対に許せない記事があります。それは
あの大新聞「朝日新聞」です。
 少し前の記事ですが、朝日の日曜版か何かで例の「ぷかぷか」のモデル「あん娘」を捜すといった内容のものです。
 新聞記者たるもの、取材対象を追う時は地道にウラを取って事実を積み重ねて記事にするものだ。ところがその内容はネットで知りえる範囲を超えていないのだ。安田南の痕跡をたどった気配さえないのだから。ブンヤだったら安田南の墓のありかくらい探し出せよと言いたくなる代物でしかないのだから呆れる。記者にしてみたらそんなに力も入らないクズ仕事だったかもしれないが、こちらは購読料払って読んでいるんだから。
 おそらくネット検索を武器にして軽く書き上げたんだろうが、ネットでは知りえない情報の一つでも掲載してほしいものだ。下北沢あたりのジャズクラブのマスターに安田南についていろいろ話を聞いて、取材費で一杯飲んで一丁上がりといったところだろう。
 私たちは、こういういい加減なメディア環境の中で生活しているのだ。
 ハナシが大袈裟すぎると思う人もいるだろうが、ここはあえて言っておきます。トランプのアメリカだってツイッターで一方的に大量のプロパガンダを流しておいて、その後に記者会見の体もなしてない記者会見をやって危ない歴史を作り出そうとしている。かく言う私もこんなブログを開いて、これも一方的な情報を提供しようとしている。この空間は極端なポピュリズム空間になりやすい。
 一方で既成のメディアも、ずっと昔に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と赤瀬川源平に揶揄されたことも忘れてしまったかのようだ。
 私たちも、くれぐれも気をつける必要があると思います。フィクションではなく、実在の、もしくは実在した人物について書く時には特に、その情報を丁寧に取り扱うことが要求されていると思います。

 前置きが長くなりすぎました。本題の安田南の「天使の恍惚」遁走事件については次にしたいと思います。これは本人から直接聞き取った話があるので、出来るだけ急いで出したいと思います。

 
 

 
 
 

 

         

安田南の軌跡と戦後日本のサブカルチャー、社会を考察する。

初めまして。アナルコです。

おそらく、この私が、今や伝説の人になってしまった安田南について、一番真実(事実かな?)を語れるだろうと思います。ホラ吹きでも勘違いでもありません。

安田南、中平卓馬、南の最後の恋人(夫?)と、長い間同伴者として交流して直接会話してきました。

 

私はいわゆる団塊世代です。そして南のファンでもあります。本来ならば安田南の評伝、サブカルのまとめ、戦後史のまとめをやりたいのですが、もう無理かもしれない。時間があまりないような気がするのです。

 

ということで、南のエピソードをたどりながら周辺の事を考える、といった方法で書き進めていくことにします。時系列を無視こともあります。でも出来るだけまとまった内容にするつもりです。

 

次から、先ずは「天使の恍惚」事件の真相から始めようと考えています。

どうぞよろしく。